2025年の大河ドラマは横浜流星主演「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」です。
江戸のメディア王と呼ばれる主人公・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)とはどんな人物なのか、そして現在の蔦屋書店やTUTAYAとの関係はあるのか?
気になったので調べてみました。
- TUTAYA創業者は蔦屋重三郎の子孫?
- 蔦屋重三郎と蔦屋書店の関係は?
- 蔦屋重三郎の家系図
- 蔦屋重三郎の経歴は?
- 蔦屋重三郎の死因は?
これらについてみていきましょう。
TUTAKYA創業者は蔦屋重三郎の子孫?
結論から申し上げますとTUTAYAの創業者は蔦屋重三郎とは関係ありません。
- 氏名;増田宗昭
- 生年月日:1951年1月20日(72歳)
- 出身:大阪府枚方市
- 最終学歴:同志社大学経済学部
増田氏は大阪府枚方市出身で、祖父は枚方の新桜町遊郭で置屋を営んでいたそうです。
TUTAYAの名前はこの祖父の置屋の屋号「蔦屋」に由来します。
増田氏のご自宅は今も枚方市桜町にあるそうです。
蔦屋重三郎は江戸の遊郭吉原の出身で、蔦屋は通名。本来の名字は「喜多川」ですので、「増田」氏とは関係ないことがわかると思います。
ご先祖や子孫ってわけじゃないんだよ
蔦屋重三郎と蔦屋書店の関係は
さて、血縁的には関係のない蔦屋重三郎とTUTAYA創業者ですが、創業において「江戸のメディア王蔦屋重三郎」を意識していたという話もあります。
TUTAYA創業者である増田氏は大学卒業後一度はファッションメーカーである鈴屋に就職し、10年ほど勤務しました。
1983年に鈴屋を退社、「TUTAYA」の前身である「蔦屋書店」を地元枚方市で創業します。
二年後の1985年にはTUTAYAのフランチャイズ本部としてカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社を設立しました。
かたや江戸の吉原。
かたや枚方の新桜町。
同じように遊郭の地で書店を始めるにあたり、増田氏が偉大な先達を目標としていたとしても不思議ではありません。
蔦屋重三郎の家系図
蔦屋重三郎という名は本名ではありません。
蔦屋重三郎は、寛延3年1月7日(1750年2月13日)に生まれました。
父丸山重助(まるやまじゅうすけ)と母津与(つよ)の間に生まれ、のちに吉原で茶屋「蔦屋」(つたや)を営む、喜多川家の養子となりました。
本名は喜多川珂理(きたがわからまる)といい、蔦屋も重三郎も通名です。
蔦屋重三郎の父親は?
重三郎の父、丸山重助は尾張出身でした。
江戸の吉原で遊郭に務めていたそうです。
- 番頭(廓の主に次ぐ地位)
- 物書き(番頭の書き物の補助)
- 見世番、二階番(遊女や客の世話)
- 寝ず番(時刻を知らせる、もめごとの仲裁)
- 二階廻り(各部屋の行灯に油を足す)
- 中郎(見習、雑用係)
寝ず番から下の使用人は、遊女と接することは禁じられていました。
重助がどのあたりの仕事をしていたのかはわかりませんし、遊郭そのものでなく遊郭に出入りする商人や職人という可能性もないではありません。
子供がいたならさすがに中郎はないかな
蔦屋重三郎の母親は?
母親については廣瀬津与という名前しかわかりませんでした。
遊郭で女性と言えばまず遊女が思い浮かびますが、遊女以外にも女性の仕事は結構ありました。
- 芸妓
- 飲食店などの店員
- やり手
- 下働き
- お針子
これですべてではありませんが、遊郭という歓楽施設を運営するのに、接待役以外でも女性が必要なのは現在と同じです。
また、年季(前もって決まっている勤務期間)が明けた遊女が、遊郭近辺で働く男性と所帯をもったり働いたりしていることもありました。
重三郎のお母さんはなにをしていたんだろう?
蔦屋重三郎は吉原出身
公共交通機関のない江戸時代、住所と勤務地は一般にほとんど同じであるものでした。
父親の勤務地が吉原なので、重三郎は吉原出身となります。
7歳の頃に引手茶屋を営む喜多川家に養子に出されていました。
引手茶屋;客が遊女が迎えに来るのを待つ茶屋。「花魁道中」はもともとこの引手茶屋に高級遊女が客を迎えに行くための道中を指す
どうやらこの養家の営む引手茶屋の名前が「蔦屋」であったようです。
TUTAYAの名前も創業者の祖父が営んでいた置屋からきているそうですから、「蔦屋」というのは花柳界に多い屋号なのかもしれませんね。
名前にまつわるエピソードはTUTAYAと似てるよね
蔦屋重三郎の経歴は?
蔦屋重三郎が20代半ばまでどのように育ったのかについての記録はありません。
- 1773年(23歳):吉原細見の販売権獲得
- 1775年(25歳):版元となり吉原細見を改革
- 1777年(27歳):吉原大門に店舗を構える
- 1780年頃(30歳頃):吉原細見の販売権独占
- 1783年(33歳):日本橋に移転
- 1785年(35歳):狂歌本や、洒落本、戯作が大ヒット
- 1788年(38歳):田沼意次失脚などの政治風刺黄表紙が大ヒット
- 1790年(40歳):歌麿の美人画大ヒット
- 1791年(41歳):山東京伝の洒落本出版により財産の半分没収
- 1793年(43歳):美人画ブームがピーク
- 1794年(44歳):写楽の大首絵出版
- 1795年(45歳):本居宣長「手まくら」出版
- 1797年(47歳):死去
貸本屋から事業をスタート
蔦屋重三郎は当初、吉原大門の手前にある五十軒道で本屋(貸本・小売)を営んでいて、吉原のガイドブックと言われる「吉原細見」(よしわらさいけん)を販売していました。
1773年、吉原細見の板株を手にして版元に仲間入りしますが、この頃は鱗形屋(うろこがたや)の独占状態でした。
1974年には平賀源内が吉原細見の序文を書いています。
1783年からは、吉原細見の出版を独占するようになります。
最初の出版物は非売品
初の出版物「一目千本」(ひとめせんぼん)は、遊女達を木蓮(もくれん)や山葵(わさび)など花にたとえて紹介したものでした。
豪華な作りのこの本は、当初は遊女から得意客へと渡されるのみの非売品で、製作費も彼らが出資したのではないかと思われます。
一般には手に入らないという事もあり、「一目千本」は江戸で大きな話題となりました。
後には遊女の名前を抜いた販売版も制作しています。
重三郎のリスクのない事業からスタートするというセンスに驚かされます。
当時の江戸の人達は家族のために奉公する遊女を偏った目で見るようなことはありませんでした。
トップクラスの遊女は財政界の大物とも対等にやりとりをする教養があって、人々が一目会いたいと憧れるスターのような存在だったのです。
蔦屋重三郎は吉原をテーマにした本を出版することで、遊女たちを知的で上品にプロデュースし、江戸の粋なエンターテインメントとしていきました。
遊郭って歓楽街と芸能界を兼ねたような場所だったんだね
数年後には、遊女の正確な在籍情報を把握して、実用的にも優れた「五葉松」(ごようのまつ)を刊行しています。
1783年、蔦屋重三郎は、吉原から日本橋通油町(とおりあぶりちょう・現在の中央区日本橋大伝馬町)に移転し、耕書堂を開店しました。
日本橋通油町は当時版元の並ぶ町であり、快進撃のはじまりにぴったりな場所でした。
耕書堂の跡地には中央区の教育委員会による説明版が設置されています。
浮世絵画家や作家を多数育てる
蔦屋重三郎は版元として多くの浮世絵画家や作家を育てました。
- 喜多川歌麿
- 東洲斎写楽
- 葛飾北斎
- 曲亭馬琴
- 十返舎一九
- 山東京伝
喜多川歌麿
喜多川歌麿は。1792年、画期的な美人大首絵(遊女や茶屋娘の上半身を大きく描写した絵)を創案しました。
婦人相学十躰(ふじんそうがくじゅったい)、婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)というそろった作品を出版し、大ヒットとなりました。
蔦屋重三郎のかなりの助言もあったと言われています。
歌麿の苗字の喜多川と蔦屋重三郎の本名がの苗字が同じなのは偶然?それと苗字をつけたのは蔦屋重三郎なの?
東洲斎写楽
写楽は謎の多い人物です。
役者の大首絵が有名ですが、役者の特徴をとらえてかなり大胆なデフォルメをしているので、役者本人や役者のファンからは嫌われてしまい、絵も売れないために退いたと言われています。
上手いのにあっという間に姿を消しているので、正体は誰なのか、当時から注目があつまっていました。
歌麿が蔦屋重三郎の元を離れたすぐ後に写楽が現れています。
蔦屋重三郎がビジネスのために必要として、プロデュースしたのでしょう。
蔦屋重三郎が作り上げた人物で、実は葛飾北斎だったのではないかという説や、役者の斎藤十郎兵衛に描かせたのではないかという説があります。
江戸最大の謎と言われています。
「写楽」は1995年に映画にもなっているよ
葛飾北斎
自分と変わらない年齢の歌麿の活躍をはがゆい思いで見ていたといいます。
挿絵などの仕事をしながら高みを目指し、代表作「冨嶽三十六景」を手掛けるのは、70歳を過ぎてからでした。
蔦屋重三郎がこの世を去った後のことですね。
曲亭馬琴
「南総里見八犬伝」の作者、曲亭馬琴は26歳の頃に蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われます。
馬琴は実は武家の出身。
しかも10歳から13歳くらいで丁稚から始めるのが当たり前の商家の奉公人としては、明らかに異例の扱いです。
30歳ごろからは執筆に専念し、馬琴は蔦屋重三郎の営む「耕書堂」から多くの読み本を出版しました。
十返舎一九
「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九は蔦屋重三郎方に寄宿して、用紙の加工や挿絵書きなどを手伝っていました。
やがて蔦屋の勧めで黄表紙を出版するようになります。
一九は文才に加えて絵心があり、文章、挿絵、版下をすべて自分で書くことができるという、版元にとっては便利な作者でした。
版下:印刷の直接の原稿となるもの。文字と絵の配置がなされており、すぐに版木をほることができる
山東京伝
江戸の粋な男と言えば山東京伝でしょう。
妻は前妻も後妻も新吉原の花魁を身請けして迎え、色男気取りの主人公が活躍する「江戸生艶気蒲焼」で評判をとり、京伝鼻の男がのぞく手拭いをデザインし、煙管や煙草の商いも行っていました。
こちらのデザインの手拭いは、現在でも復刻され、販売されています。
寛政3年以降の作品のほとんどを蔦屋重三郎か鶴屋喜右衛門が出版しています。
じつは仲間で飲食した時の支払いを「割り勘」にすることを始めたのもこの京伝だったとか。
寛政3年には洒落本3本が禁令を犯したとして手鎖50日の刑を受けることとなりました。
手鎖とは:江戸時代の刑罰。前に組んだ両手に瓢箪型の鉄製手錠をかけて、一定期間自宅で謹慎させる。
この時に蔦屋重三郎も資産の半分を幕府に没収されています
蔦屋重三郎の死因は?
蔦屋重三郎の死因は脚気でした。
脚気はビタミンBの欠乏によってかかる病気ですが、当時は江戸の風土病として扱われており、江戸患いなどと呼ばれていました。
江戸に脚気が多かった理由は、庶民に至るまで精白した米を食べていたことによると言われています。
米は精白することによって多くの栄養素が失われてしまいますが、ビタミンBもその一つでした。
当時は現在のように多彩で多くの副菜をとる習慣がなく、しかも加熱しない生鮮食料品の割合はいたって少なかったので、副菜でビタミンBを補いきれないことも多かったようです。
- 手足のしびれやむくみ
- 末梢神経の麻痺
- 心臓の衰弱
蔦屋重三郎の享年は48歳でした。
耕書堂の2代目は番頭の勇助が継ぎ、最終的には明治初期の5代目まで続きました。
まとめ
- TUTAYA創業者は蔦屋重三郎の子孫ではない
- TUTAYA 創業者増田宗昭氏は大阪府枚方市出身
- 蔦屋重三郎の本名は喜多川で江戸の吉原出身
- 蔦屋重三郎の耕書堂は明治初期まで続いた
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